キリストの奥義
拡大されたキリストの中で
キリストを認識し、経験する |
神はおられるのでしょうか? 神がおられるのなら、どのような方なのでしょうか? これは宇宙の中の根本的な問題です。歴代、人はさまざまな面から神を尋ね求めてきました。しかし、神に対する真の知識は、すべてキリストにあります。なぜなら、「神の奥義なるキリスト」(コロサイ2・2)であるからです。キリストの外では、人は神を見いだすことができず、神を認識することもできません。しかし、これだけではまだ答えの半分にすぎません。なぜなら、キリストもまた奥義であるからです。神の奥義はキリストです。それでは、キリストの奥義は何でしょうか? この十一章にわたるメッセージの中で、ウォッチマン・ニー兄弟は神の聖なる言葉に基づいて、この奥義の中の奥義をすべてわたしたちに開いています。
新約の著者の中で最も幅広く著作を残したパウロは、「キリストの奥義に関するわたしの理解」(エペソ3・4)と言っています。この奥義は、彼がその後で続けて述べている「キリスト・イエスの中で、異邦人が……共にからだ」となることです。すなわち、キリストの奥義とは、教会、キリストのからだなのです。こういうわけで、神を認識するためには、キリストを認識する必要があります。なぜなら、キリストは神の奥義であり、神の解釈、説明、表現であるからです。同様に、キリストを認識するためには、教会、すなわちキリストのからだ、拡大されたキリスト(Tコリント12・12)を認識しなければなりません。なぜなら、キリストのからだはキリストの奥義であり、キリストの解釈、説明、表現であるからです。本書のメッセージがわたしたちに見せていることは、キリストのからだは、一つの教理ではなく、一つの範囲であること、一種の教えではなく、一つの命であるということです。
パウロは、彼のクリスチャン生活の始まり、すなわちダマスコへの途上で、何と大きな光を見たことでしょう! 主がパウロに対して、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と言われた時、この昇天されたかしらの奥義、すなわち地上で生活している彼の多くの肢体によって構成されているからだを、主はパウロに対して啓示しておられたのでした。これはパウロを支配するビジョンとなりました。また、パウロの書いた多くの書簡の中で述べられている、信者が到達すべき最終目標でもあります。天の行程を歩む親愛なる旅人の皆様、あなたはこのビジョンを見たでしょうか? この目標に向かって歩んでいるでしょうか?
ニー兄弟が1939年に解き放ったこのメッセージによって、多くの人が個人的な霊的追求の狭い世界から離れて、キリストのからだの豊富で広大な領域の中へ入るようにと導かれてきました。わたしたちはこの範囲の中に入っているでしょうか? これは今日だれも無視することのできない問題です。わたしたちはみなキリストの十字架を愛しますが、十字架の働きの終点はキリストのからだであることを、わたしたちは見たでしょうか? 信者であることと肢体であることは、同じではありません。あなたは、肢体であることを正しく経験し、体験したでしょうか?
これらのメッセージは、あなたをキリストのからだの実際の中へと入るよう導き、光と啓示を得させるだけでなく、さらに実行と経験をも得させます。
ある人は問います、「わたしは何か罪を犯したわけでもなく、不従順であったこともなく、献身を撤回したわけでもないのに、なぜわたしの喜びはなくなってしまったかのようになり、力に不足するのだろうか?」。主を愛し、主に仕えているあなたは、このような問題を持っていないでしょうか? ニー兄弟は答えて言います、「その原因は、あなたの個人の生活が多すぎ、長すぎるからです。あなたはからだの生活の中に入る必要があります」。そうです、キリストのからだの中には豊富があり、供給があり、保護があります。これらは、単独の信者には決して味わうことのできないものです。キリストのからだの権威と制限の中にのみ、正しい務めがあります。これらの事柄を見、実行する者だけが、真にキリストの奥義を知ることができるのです。
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