アブラハム、イサク、ヤコブの神
生きている者の神 |
これまで、神を尋ね求める幾千万という人たちが、神はいったいどのような方であるのかを知ろうとしてきました。しかし、神に対する正確で完全な認識に至ることはできず、神との満ち満ちた甘い経験の中で、真の人生を享受することもできませんでした。このため、神は特別に一つの尊い贈り物、すなわち神の言葉である聖書を人に賜わりました。神は、新旧約のそれぞれの書の言葉を通して、神ご自身の各面を啓示し、人が神との正確で、甘く、生きた関係を持つことができるようにします。
聖書の最初の書である創世記で、神はわたしたちに三人の著名な人物、アブラハム、イサク、ヤコブを与えてくださいました。この三人は、イスラエルの先祖であるだけでなく、聖書の中で特別な地位を占めています。多くの出来事で彩られた、興味の尽きない彼らの一生の中で、彼らはいつも自分たちを創造した神と関係を持っています。神はこの三人の伝記を通して、ご自身を啓示します。そして人が神を知り、信じるだけでなく、人生の経験の中で神のみこころと神のエコノミーを認識し、聖霊の働きに服し、神によって刻まれ、神の至宝の傑作となり、この栄光の神を極みまで表現することができるようにします。このために、神は特に主のしもべニー兄弟を興して、この三人の人物の歴史が表すものを解き明かし、聖書の内在的な意義に入り込ませ、クリスチャンを導いて、神を認識させ、自己を認識させ、神に用いられる器とならせ、神が人に対して持っておられる永遠の目的に到達させます。
ウォッチマン・ニー兄弟は次のことを示しています。人は主を信じた後、必ずアブラハム、イサク、ヤコブの経験を追い求めるべきであり、それは神の民がみな持つべき経験です。またこの三人が神の御前で得たものは、神の民がみな得るべきものであるということです。彼ら三人の霊的経験は、三つの異なる霊的原則を表しています。神の子たちはみな、アブラハムの成分を持つべきであり、イサクの成分を持つべきであり、ヤコブの成分を持つべきです。神に感謝します。本書は、この成分の本質と特徴を啓示しており、神の民が道を進む上での依り頼む杖となっています。
アブラハムがその一生で学んだことは、神が父であることを認識することであり、すべてが神にかかっており、神がすべての源であるということです。イサクは、すべてが神から受け継いだものであることを見せています。ですから、アブラハムにおいては神の目的を見ることができ、イサクにおいては神の力を見ることができます。神の要求、標準はアブラハムにあります。神の供給、神の倉はイサクにあります。ヤコブにおいては、聖霊の管理の働きを見ることができます。神は、イサクに対してはいつも供給し、ヤコブに対してはいつもはぎ取ります。イサクは、何が勝利を得る命の享受であるかをわたしたちに見せています。ヤコブは、何が天然の命の対処であるかをわたしたちに見せています。神は、一歩一歩この天然の命を対処し、これを完全に終わらせます。それによってはじめてキリストはわたしたちにおいて完全に表現されるようになります。これが、クリスチャンが追い求めるべき三つの特別な経験です。すなわち、アブラハムが見たように、クリスチャンは神の御前でビジョンを見る必要があります。イサクが得たように、一つの命を得る必要があります。ヤコブが受けたように、聖霊の管理を受ける必要があります。この三つの特別な経験があってはじめて、クリスチャンの生活と奉仕は、神の御前で価値のあるものになります。
本書は全部で十二の章からなっており、アブラハムの召しから、イサクの特徴、ヤコブの円熟に至るまでを見せています。それぞれの章は、命の経験の導きと命の経験の結晶に富んでおり、まさにクリスチャンの命の経験についての宝庫です! どうか神が本書とその読者を祝福してくださり、わたしたちを導いてアブラハム、イサク、ヤコブの神を認識させてくださり、わたしたちを神を証しする器としてくださいますように。
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